2011年3月18日

2011/03/18

アメリカから帰ってきて、バタバタしているうちに地震が起きた

テレビの映像が悲惨だった

初めてサーフィンした荒浜

自転車で行ってた松島

名取

多賀城

相馬港

多くの方が亡くなり、すべてがなくなった

3日間はひたすら安否確認した

何回も何回も電話して、心が不安定だった

こんなにもmixiやツイッターが役立つなんて考えてなかったけど、最速で連絡を取る方法となった

同時に、出来る事を考えてみたけど、電気をつけないで募金箱にお金を入れて、無事だと連絡をくれた友人や知人を励ます事しか出来ないと分かった時・・・いや、分かっていたけど受け入れなければいけないと決心がついたときの、自分の小ささには呆れた

その反面、日本人の侍魂を誇りに思った

「私、地震起きたあとコンビニに寄ったら、店員さんが余震続いてるなか自分も早く逃げたいだろうに、必死に電灯で照らしながらお会計してたし、肉まんくださいって言ったら冷たいから申し訳ないから半額でいいですよって言ってくれたんだよ」友人のmixiより

「都心から4時間かけて歩いて思った。歩道は溢れんばかりの人だったが、皆整然と黙々と歩いていた。コンビニはじめ各店舗も淡々と仕事していた。ネットのインフラは揺れに耐え抜き、各地では帰宅困難者受け入れ施設が開設され、鉄道も復旧して終夜運転するという。凄い国だよ。」

「物が散乱しているスーパーで、落ちているものを律儀に拾い、そして列に黙って並んでお金を払って買い物をする。運転再開した電車で混んでるのに妊婦に席を譲るお年寄り。この光景を見て外国人は絶句したようだ。すごいよ日本。」

「子供がお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。」

「家屋に取り残され、42時間ぶりに救出された高齢の男性の映像。「チリ津波も経験してきたから、だいじょうぶです。また、再建しましょう」と笑顔で答えていた。

この映像で涙が出た

たった今、寒さに苦しんでいる人がいる

家族を亡くし、家を失い明日が見えなくなっている方がいる

未だに、家族の安否が分からない人がいる

原発所で、必死に日本を守ってくれる人がいる


僕らが老人になった時

「昔、東北で大地震があった時、何年もかかったけど皆で協力しながらここまで復興したんだ」って胸を張って孫に言えるような1日を一歩ずつ過ごそうと思う

しっかり仕事して日本の景気を支える事も、納税する事も、もちろん、自転車を売る事も・・・部屋の電気を暗くするのと同じで東北に繋がってると信じています

僕は、前を向いて歩こうと思う

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